宗教二世、教会二世 いきいき生きる人を排斥したくなる

宗教二世/教会二世

自己を喪失し、「本当の自分」を「自分の中の他人」にしてしまった人は、他の人が「本当の自分」を生きているのを見ると激しい葛藤を感じ、最後は抹殺します。人を赦し、人を愛することを勧める宗教では、「教義がずれている」などの言い方がされます。しかし実際は、他人の中に感じた「本当の自分」を攻撃しているだけです。

イエスは当時の既存の宗教だったユダヤ教の専門職、パリサイ人や律法学者から嫌悪され、最後は死刑に追い込まれました。ここに同じメカニズムが働いていたことは想像に難くありません。イエスは本当の意味で自由に、いきいきと生きていました。それが理由で抹殺されました。

宗教ではカミのご加護のもと、赦された感触を持ちながら自由にいきいきと生きる生き方を「恵み」、あるいは「恵みに生きる」といいます。キリスト者として、戒律に縛られた生き方を脱して、自由に、恵みで生きようとすると、排除されることを覚悟しなければなりません。専門職としてこの覚悟を定めているかは、折あるたびに自問してきました。

極端な二項対立

内側に秘められた攻撃性は、いくつかの形になって表面化します。

一つは、外側に向く攻撃性です。

宗教は戦争をしてきました。もちろん、しない宗派もあります。

キリスト教に関して言えば、

1 戦闘意識を高めることで求心力を保とうとした

2 自分たちだけが真理を知っているという特権意識が背景にあった

問題なのは、聖書の解釈が攻撃性に正当性を与えてきたことです。

筆者が子どもの頃、戦闘モードは当たり前でした。自分もそれに乗って布教活動に参加しました。戦闘モードに振り切ることに躊躇を感じると、それは信心が足りないからだと断じられ、自分を責めた記憶があります。

キリスト教の攻撃性の背景には、極端な二項対立があります。正しいこと、間違っていることといった極端な二分化がされます。現実は、その間に限りなく拡がっているグレーゾーンのどこか、のはずです。

宗教は、天国・地獄のように、白か黒の発想になる傾向があります。そうすると、天国に入れる者、地獄に行く者というように、人を二分化します。このようなわけ方をすると、自分はどちらなのかが気になります。不必要な不安が喚起され、そうでない人を断罪したり、見下したりする心理も増幅されます。

死後、極楽に行けるかは、人間にとって深刻な問題です。キリスト教に関して言えば、死を通過したら、セカンド・チャンスはないとされます。

この教義を否定するつもりはありません。しかし、一人の人がどのように生きたのか、どのように死に向き合ったのかはだれにもわかりません。それにもかかわらず、あの人は天国・極楽に行った、あの人は行けなかったなどと軽々に決めつけてしまいます。これは線を越えています。

不安をコントロールのツールにする宗教は、本当の宗教ではありません。

続く

河村従彦

臨床心理士/牧師
カワムラカウンセリングルーム運営
KCPSコンソーシアム(牧会・心理職研修会)主宰
牧師人材育成、大学非常勤講師、ボランティアカウンセラー養成、出版、児童発達支援、職員コンサルにも従事、企業の総務にも関わる
東京、神奈川、静岡で教会を牧会
臨床心理学とキリスト教の両方に関わる領域に関心
「神イメージ理論」はライフワーク 博士(人間科学)
若い頃のアイデンティティ崩壊、人生後半にメンタルバランスを崩した経験から、人のお役に立ちたいと願って臨床を続けている

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