もう一つは、内側に蓄積された攻撃性、隠蔽的残忍さです。
人間には残忍さがあります。宗教は教義を大義として動員することで、人の残忍さを刺激します。宗教には、人に対して残忍になれてしまう怖さがあります。本来は逆で、宗教は人にあわれみの心を与えるはずです。
あわれみの心を喚起するためには、より崇高な理念を提示し、規律を厳しくすればよいと思うかもしれません。しかし、規律を厳しくすると、本能を隠す装置はさらに強化されます。逆効果です。
かつて学んだ牧師養成学校は、立場が上になると、相手がどう感じるかは考えないドライさがありました。ある線を越えるとそれは残忍さになりました。自分もその枠の中で過剰適応しました。相手を封じ込めるために権力を動員し、教義が正しいかを理由に相手を攻撃しました。相手を抹殺しても何も感じません。宗教が戦争を繰り返してきたのも頷けます。
宗教を背景にした療育では、子どもが傷ついてもそれを感じ取ることができません。子どもを傷つけながら、自分は宗教的に立派だと考えます。それもカミの思し召しになります。
なぜ宗教的コンテクストでこのようなことが起きるかについては、安冨らの理論は理解の助けになりました。第七章の「批判的・攻撃的パーソナリティ」の項目をご参照ください。
平安の正体 快
「宗教の不健康さ」の項目で提示した〈内面性〉について考察します。
宗教では、平安や喜びがよしとされます。皮肉なことに、それが現実に向き合わないシステムとして作用します。ネガティブ感情は感じていないことになり、団体内で起きた負の出来事はなかったことにされます。これが宗教団体の隠蔽体質です。
宗教的コンテクストにおける平安や喜びとは、どういった感情なのでしょうか。快です。
快を感じる要因は二つあります。
1 快は、思考停止になったときに感じる感覚です。考えるのをやめると気持ちよくなることを経験されたことがあると思います。これを宗教体験だと思い違いすることがあります。「委ねる」とか「信じ切る」といった表現が好んで使われます。自分にはカミの召しがあるという信仰体験も、思考停止に陥る要因になります。
2 ヒエラルキーの中に自分を位置づけることで、人間は快を感じることができます。
この快は永続しません。一時的なので、快を感じるためには自分を位置づけ直す必要が出てきます。それで、人よりも上に行かなければならなくなります。このような現象は宗教と無縁と思われていますが、団体という狭い世界の中で「~長」といった役職に就くことを願うなど、密かに出世競争が行われる背景にこの心理があります。
この心理的メカニズムは、ネット上の誹謗中傷の心理に似ています。人が成功していると、ネットで攻撃したくなります。ネット上なので、自分が返り血を浴びる心配はありません。相手を攻撃し、自分が優位に立ったと思うことで快を感じることができるのです。
これは幻想です。しかし、快を感じることができれば事実などどうでもよく、幻想で十分なのです。
ハラスメント事案に取り組みました。批判を受けました。なぜハラスメント問題では批判が噴出するのでしょうか。攻撃することで感じることのできる快は、一度味わったらやめられないものなのです。
続く

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