世襲と並んで、宗教の世界でよく言われるのが信仰継承です。世襲は専門職の問題ですが、信仰継承は一般の信徒も含めた問題です。
キリスト教の場合、親が自分の信仰をよいものだと思っていれば、それを子どもにも引き継いでほしいと願うのは自然です。ある意味尊いことです。
ところが、信仰は継承すべきというマインドが妨げとなって、子どもが自立できない場合があります。信仰を継承することは、親の側の価値観だからです。
信仰を継承することを否定しているのではありません。子どもの側で、自覚的に受け止めることが欠かせないということです。ただこれが難しいことを、わたしたち周辺の現象は教えてくれています。
信仰継承とは、心理学的には何を意味しているのでしょうか。
キリスト教神学を大成させた第一人者であるパウロは、「自分のようになってください」(新約聖書・使徒の働き26・29、ガラテヤ人への手紙4・12)という言い方をしました。その言い方は、自分の思想信条をそのまま受け取ってほしいということではなく、自分みたいな立派な人間になってくださいという意味でもありません。自分が情けない人間だということがわかる、自分意識を持てるようになるということです。
親が子どもに、自分と同じ信仰引き継いでほしいと願うとき、親は、
「心理的自己肥大」
を起こしています。自分の身の丈がわかったら、自分と同じ信仰を持って欲しいとは思わなくなります。自分みたいな情けない信仰ではなく、他の人をモデルにしてほしいと願うはずです。
信仰継承にこだわる親は、自分意識を持てていない可能性があります。親が自分を客観視できない、つまり親が自分の親から自立できていないので、子どもにも同じ信仰、同じ職業を選んでほしいと願うのです。
親と同じ専門職を選ぶと、子どもは自分らしさを生きにくくなります。召しに沿うことが正しいこととされ、それに邁進します。邁進すればするほど、自分らしさは捨てなければならなくなります。いつも人目を気にし、自分の素を生きることができなくなります。
社会生活を営んでいる以上、自分らしさを発揮し切ることは難しいでしょう。普通の職業を選択していたら、仕事と趣味の使い分けをしてライフワークバランスを取ることができます。しかし、仕事自体が召しによるものだと考えれば、生活の全部をそこに閉じ込めなければならなくなります。
人間性を考えたときには、やはり無理があります。メンタルバランスを崩すなど、どこかで綻びが出ます。人と関わる仕事は、一般の職種以上にライフワークバランスを考える必要があります。
自分らしさを封印しながら生きると、怒りを抱え込むことになります。何に対して怒っているかをあまり意識できていないケースもあります。親に対して怒っていると認識出来ている場合もあります。団体に対する怒りを溜めこんでいる場合もあります。
宗教は、怒ることにネガティブです。怒りを感じていながら、感じていないように自分の心理を誘導します。本当の自分は他人であるかのように隅に追いやられます。感情は、自分を迷わせる困った存在として、意志力のコントロール下に追いやられます。自分を生きていない状態です。
このようなことを何度も繰り返しながら、イメージで造り上げた偽りの自分を生きるようになります。造り上げた自分は、宗教の枠の中では好都合です。よい宗教者として賞賛されます。
怒りの感情はエネルギーを持っています。未消化のままだとどこかでまた顔を出します。折り合いをつけるのが遅くなればなるほど、噴出したときの影響は大きくなります。
続く

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