宗教は崇高な理念を掲げます。まっとうな人間になることを求めます。宗教が考えるまっとうな人間にとって邪魔になるのが感情です。感情は自分の意志でコントロールすることができません。感じたまま感じるのが感情です。
宗教の枠組みでは、感情のコントロールが一つのテーマになります。コントロールするために都合がよいのが意志です。それで、信仰は意志的なものだという言い方がされます。
その場合、感情は意志と対極の位置におかれ、嫌悪すべきものになります。
感情表現をしたときに諫められる体験をすると、子どもは、感情は表出してはいけないものだということを学習します。感情を抑圧するのが普通のことになり、感情を感じないで生きるようになります。
感情機能が停止しているというと、自分は怒りの感情を感じているから感情機能は停止していないという反論が出てきます。怒りの感情は人間の基本感情の一つで、尊厳を損なわれたときに出てくる自然な反応です。感情がバランスよく機能していなくても、一番簡単に出てきます。
感情機能がバランスを回復して行くと、次のことが観察されます。
1 悲しみ、楽しみ・喜び、怒りがバランスよく表出できるようになる
2 あわれみの感情を感じるようになる
あわれみの感情は、他者を人として認識しないと出てこない感情です。心理的成熟の一つの証しになります。あわれみの感情が機能しないと、人に対して残忍な対応をしても、本人は何も感じることができません。
人を簡単に責めることができます。そのとき、自分の感情を悟られないために、大義が必要になります。そこで動員されるのが教義です。「カミのために」という言い方がされます。「あなたのためを思って」という言い方もあります。
キリスト教会は戦争を繰り返してきました。その理由は、このあたりにあります。宗教は人を残忍にできる怖さを内包しています。イエスは「いけにえよりあわれみの心が大切だ」と言われました。
続く

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