伝統的な宗教が背景にある環境で人格形成をした人たち、いわゆる教会二世の中にも、生きづらさを感じている人が少なくありません。カウンセリングルームを運営しています。伝統的なキリスト教であっても、苦しんだ末に団体と距離を取るという結論に至る方もあります。
教会二世の生きづらさは隠蔽されてきました。宗教が背景にあると、すばらしい宗教に生きづらさなどあるはずがないという前提があって、生きづらいということを訴えることも許されませんでした。
教会は、本人の幸せのためならと、生きづらさの声を前向きに認めるでしょうか。
その団体が、他宗派を見て、あれは危ない宗教だからという言い方をしてきたとすれば、それは、問題に目をつぶることに他なりません。そしてそれが、教会二世をさらに苦しめることになります。
教会二世問題を取り上げる目的は、教会二世が立派な信仰をもって生きるように促すことではありません。それだけならば、教会二世の苦しみに塩の上塗りをしているだけです。
本ブログが注目しているのは、明るみにされてこなかったその生きづらさです。教会二世の声に耳を傾け、教会二世に寄り添い、教会二世の現実に正面から向き合うことです。向き合ったときに見えてきたものをどうするかは、教会二世の方々本人が決めればよいことです。
トラウマやPTSDは、その分野の専門家たちが検討を重ね、さまざまなカウンセリングモデルが提案されてきました。教会二世もそれで十分なはずなのですが、問題はここからです。
臨床心理士・牧師として人と接するうちに、教会二世の場合、問題はさらに複雑なのではないかと感じるようになりました。
発達性トラウマを生み出す原因は、「おかしな宗教」である必要はありません。社会的認知がされている伝統宗教も、十分発達性トラウマの原因になります。
背景に宗教があること自体が問題なのではありません。宗教が不健康になり、病理を生む線があるのではないかという意味です。
宗教二世の問題と教会二世の問題はどこが違うのでしょうか。
簡単に言うと、宗教二世の場合は、高額の寄付金を要求したり、物品の購入を求めたり、社会でもその宗教実践に問題があるとされます。マスコミが叩くこともあります。
宗教二世が、自分が属していた団体には問題があるという結論に至ったとします。そのとき、社会もそれに合わせて問題があると言ってくれれば、その団体を怒りのターゲットにできます。やめればいいという決断をすることについても、それほどハードルは高くありません。
他方、教会二世の場合は、親や自分が関わっている宗教が社会的に問題視されているわけではありません。伝統宗教は社会的バッシングを受けません。日本語に「敬虔なキリスト者」という用語があります。社会から「立派な人たち」という評価を受けることもあります。
立派を自負している人たちは、自分が苦しみの原因になる可能性があるとは思いもしません。一生懸命、一人の善良な市民として宗教に邁進しています。
ところが、その立派さが、教会二世の苦悩の原因になるのです。教会二世にとって、自分を苦しめている団体や親が立派だという評価を受けること自体が苦しみなのです。
生きづらさを感じている教会二世は、その宗教が、信心の表れとして高額な物品の購入を迫るようなことをしなくても、心理的に同じことが行われていたことを漠然と感じ取っています。ただ、その違和感が言語化されていないだけです。さらに苦しいのは、漠とした違和感をだれにも言えないことです。なぜなら相手は、社会的に認知されている「敬虔な宗教」だからです。
ところで、今では伝統的宗教と見られている宗教も、最初は「アブナイ」宗教だという見方をされていました。ユダヤ教は新興宗教であるキリスト教を異端視し、排斥しようとしました。ところが、キリスト教はユダヤ教がこだわったような文化的規律にこだわらなかったことで、地中海世界で幅広く受け入れられるようになり、世界大の宗教に発展しました。
この現実を認識しているキリスト者は、それほど多くありません。勝てば官軍のように、自分たちだけが正統的だと考えています。人間はみな、自分が正統的だと思いたいからです。ところが人間は、自分たちが正統的だと思うと、そうでない人たちを批判できてしまいます。キリスト教は、社会的批判を浴びる宗教を厳しく攻撃し、排除を試みてきました。その歴史は、イエスが解いた教義とはかけ離れた、異質なものです。
教会二世の中には、自分が信じて疑わない宗教が新興宗教を攻撃しているのを見ながら人格形成をした人もいます。こういったスタンスが、多感な時期を過ごす教会二世のパーソナリティに攻撃性を埋め込むことになった可能性は否定できません。教会二世はそこからくる生きづらさを抱えたまま、一生涯苦しむことになります。
続く

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