宗教二世、教会二世 牧師などの専門職の方、専門職を目指している方へ

宗教二世/教会二世

キリスト教の専門職を選んだ方、これから選ぼうとしている方はぜひ参考にしてください。

キリスト教の専門職の場合は、カミの召しが必要であるとされます。自立と召しは、深い関係があります。親から自立できている前提で召しを理解する必要があります。実際、親と同じ専門職を選んで、その上で親から自立する、すなわち、親と違う価値観を作るのは、かなり複雑な作業になります。

召しについて、次のような受け止め方をすることがあります。

1 やりたい気持ち、憧れのようなものを感じる
2 教会の仕事をするために自分に召しがないかを探した
3 カミに仕えるためには専門職になる必要があると感じる
4 一般の仕事よりもカミの仕事のほうが生きがいを感じる
5 親に反抗していたけれども、最後は親と団体の価値観を受け入れた

微妙ですが、いずれもカミの召しではありません。キリスト教専門職の人材育成の仕事をしてきました。このようなモチベーションでは、専門職として現場に出てもうまく行きません。教会との信頼関係を作れずに、本人も教会も苦しむことになります。

親の価値観から出ることができない葛藤は、その矛先がメンバーに向きます。そこでハラスメントが起きます。

問題は、親の価値観から出ることができているかです。それが難しいのであれば、それはカミの召しではありません。なぜなら、キリスト教は自立を促す宗教であり、キリスト教のカミは自立を喜ばれるカミだからです。
 聖書のカミが愛のカミであるとしたら、愛の対象である人間を、コミットメントできないような仕事に導くことがあるでしょうか。基本的な考え方として、愛のカミは、その人が持っている資質を花開かせ、キャリアにコミットメントしながら生き生きと生きることを願うはずです。それが聖書の愛のカミです。

特別なケースはあるでしょう。どうしてもやってほしい仕事がある場合は、「ここはひとつ曲げて私の仕事をやってほしい」という意味で召しがあるかもしれません。聖書に登場する人物たちは、どちらかというとこのような特別なケースです。

専門職になるための召しは、あくまで慎重であってほしいのです。親の陰がちらつくようであれば再考の余地ありです。専門職の道に進んだ方が専門職である親を尊敬している場合も、もう一度自分の自立について考えてみる必要があります。安易に踏みだせば、本人も周囲も不幸になります。

「あの仕事はすばらしい」と団体や周囲の人たちが煽るようなことは厳に慎むべきです。団体の勢力維持が目的である場合もあります。キリスト教のカミは、人間が煽らなくても、必要だったら召しを与えるカミです。

カミの召しがあるかについて考えるときにも、心理的操作が働きます。親はことばでは言わなくても、子どもの側では、自分にカミの召しがあったとすると親が喜ぶことを知っています。

自分を客観的に見る目線は失われます。召しがある方向に自分を誘導して行きます。大会などが行われれば、「召しがある方はいませんか」と促されます。このような宗教的な雰囲気の中で、自分にも召しがあると思ってしまう可能性は、牧師など専門職の子どもであればあり得ることです。

いくつかの職種の方に、「どうしてこの職業を選ばれたのですか」とお尋ねしたことがあります。かなりの方が、親がそうだった、親族にそういう人がいたなど、身近な人の影響を挙げます。幼い頃から見ている仕事は、ハードルが高くないのです。

宗教では、このことは問題になります。幼い頃から見ている仕事に就きやすいことが問題なのです。自己アイデンティティが明確でなくても、自分軸が明確でなくても、コミットメントが明確でなくても、なれてしまうからです。カミの召しがあった、この一言で全部をクリアできてしまうのです。周囲も何も言えなくなってしまうのです。

カミの召しは運命論的にとらえる必要はありません。人生がしばらく過ぎた段階であっても、上手に振り返りができれば、その後の人生を有意義に生きることができます。振り返りをして違っていたと思ったら、修正すればよいだけです。自分の生き方を取り戻すことは十分可能です。決して致命的ではありません。

修正するときに大切なのは、団体や教会が、そのような柔軟な修正を温かく見守ることができるかです。専門職を辞めて一般の仕事に就いたケースを、カミの召しに逆らったとか堕落したといったネガティブな見方は絶対にすべきではありません。そもそもカミの召しほど個人の尊厳に属する問題はないはずです。

振り返りでは、おそらく次のことがテーマになると予想されます。

1 生きてきた人生を肯定的に見直すこと
2 原家族、特に母親との関係を見直すこと
3 自分に与えられた資質を生かす方法を探ること

これからをどのように生きるかについては、柔軟に可能性を探ることが大切です。自分の資質を生かすことができる軸をもう一本持っておくこともできます。振り返りができれば希望があります。よい振り返りができれば、自立して行くことができます。自分を取り戻す中で、メンタルバランスも改善して行くのではないかと期待できます。

牧師等の専門職として生きるために、カミの召しは重要な意味を持ちます。「自分から手を上げた」のではなく、「頼まれた」という感覚です。この感覚は、難しい局面で自分を支える力になります。困難に直面するときの支えになります。序章で説明したとおり、挫折体験を経てから、カミの召しそのものが揺らいだことはありませんでした。だからこそ、ハラスメント問題など自分の首をかける場面でも、自分軸を失わないで済んだと言えます。

カミの召しについてよくわからないまま専門職を目ざすことは絶対にすべきではありません。自分から手を上げる性質のものでもありません。カミの召しだけですべてが決するという白黒発想は行き過ぎです。もう少し生きることの柔軟さを身につけてもよいのではないかと感じます。

続く

河村従彦

臨床心理士/牧師
カワムラカウンセリングルーム運営
KCPSコンソーシアム(牧会・心理職研修会)主宰
牧師人材育成、大学非常勤講師、ボランティアカウンセラー養成、出版、児童発達支援、職員コンサルにも従事、企業の総務にも関わる
東京、神奈川、静岡で教会を牧会
臨床心理学とキリスト教の両方に関わる領域に関心
「神イメージ理論」はライフワーク 博士(人間科学)
若い頃のアイデンティティ崩壊、人生後半にメンタルバランスを崩した経験から、人のお役に立ちたいと願って臨床を続けている

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