日本的文化風土の中で、宗教の専門職は独特な見方をされてきました。実際、世襲を是とする宗教もあります。そのことについては、何かを言う立場にありません。
その上で、キリスト教に関して言えば、微妙な化学変化をもたらしたことは否定できません。
最初に配属になった教会は親も関わっていました。メンバーの中にいろいろな受け止めがあることはすぐにわかりました。そのことを知った上で、人の良心として、自分はそこにい続けてはいけない、世襲を感じさせるようなやり方を防ぐためには自分が声を上げるしかないと心に決めました。
キリスト教の牧師職は独特な見方をされます。大きく二つに分けることができます。
1 牧師など専門職の家に生を受けた者は専門職になるべきカミの召しがある
2 どのような出自かはその人の職業選択を拘束するものではない
キリスト教の教義はどのように言っているでしょうか。明確です。専門職は世襲ではありません。その理由は二つあります。
1 キリスト教の基本教典である聖書は、世襲をサポートしていない
旧約聖書に祭司という職が出てきます。祭司職は世襲です。しかし、聖書の中で仕事をした人たちは世襲ではありません。カミの召しはいろいろな人に示されています。人生を踏み外したような人が仕事を任されています。
2 キリスト教は、宗教は個人的なものだということを強調する
信仰は親に影響されるものではない、個人的なものだということを強調します。それでありながら、子どもの職業選択や配属の話しになると、世襲の発想が入ってくることは矛盾しています。
簡単に善し悪しを判断することはできません。実際、上手に世代交代したケースもあります。しかし、本人も周囲も、子どもの側が大きな重荷を抱え込む可能性があることは十分理解しておくべきです。
スッキリ自立ができないと、親の敷いたレールを何歳になっても歩き続けることになります。
一般的に、同じ職業を選ぶ場合は、自分で選択する必要があります。人間が自立するためには、親の価値観から出ることが欠かせないからです。ところが、宗教が絡むとこれがうまく行きません。なぜなら、親も子も、宗教という同じ価値観の中にいるからです。
子どもが親と同じ職業を選択したとします。それが専門職だった場合、何歳になっても、
「親の敷いたレールの上を歩いている」
という印象の生き方になります。この現象は、違う職業を選んだときには発生しません。
専門職を選ぶ場合には、カミの召しが必要とされます。カミからの召しがあったとしたら、それは絶対的なものとして受け止められます。周囲もカミの召しがあると聞けば、それを賞賛しますし、違和感を抱いた場合もそれに疑義を唱えにくくなります。
専門職である親が、子どもが専門職になることを望んでいたとします。その場合、召しがあることはまさに親の価値観です。そのまま進めば親の傘の下で生きることは避けられません。召しがあったことが、子どもを心理的に縛る結果になります。
このあたりがクリアできないまま子どもが専門職を選ぶと、子どもの中に、自分の意志で職業を選択できなかったしこりが残ります。クリアすればいいと考えますが、そのプロセスは非常に複雑になります。
続く

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