生きづらさということばを使うと、すぐにイメージするのは劣悪な養育環境です。たとえば、父親がアルコール症だったとか、家の中で暴力をふるっていたとか、母親が男に走って家を出てしまったとか、そのような事例です。
ところが、宗教二世や教会二世の問題が発生する家族は、必ずしもそのような環境ではありません。どこにでもある、一見すると絵に描いた幸せな家族、見た目も信心深い家族です。
いくつかパターンを挙げました。
1 見た目はきちんとしている
一時期、アダルト・チルドレンが注目されました。親が校長であるなど、社会的に評価されている家族でアダルト・チルドレンは生み出されます。必ずしも劣悪な家庭でないことが一つのポイントでした。そのときに感じたことは、宗教の世界は例外でないということでした。むしろ、牧師など宗教者の家庭で起きやすいのではないかとも感じました。
2 心の交流が希薄か、ない
宗教的な背景がある家庭は、そうでない家庭に比べてそれなりの規律があるのが一般的です。何が正しいかという基準がそれなりの意味を持ちます。モラルに反したことをすれば、それに見合った罰則が与えられることもあります。ところが、心の交流がありません。
3 一見きわめて宗教的
家庭の中で宗教行為が行われます。宗教団体と個人や家族の都合がぶつかる場合は、団体の予定が優先されます。日曜日や水曜日に団体で行事があると、子どもが他のことに参加することは禁じられます。
伝統古来の宗教、神社仏閣など、他の宗教に関わることには線を引きます。関わったり参加したりすることもありません。子どもがお祭りに参加したいと言っても、親はそれを禁止します。
4 親が子どもを支配している
親の価値観が家庭を支配します。その価値観は、しつけ、あるいは正しい教育として正当化されます。子どもがどのように感じているかは無視されます。
宗教は親の教育方針を正当化する手助けをします。宗教であるゆえに、絶対的な権威を帯びることになります。親の価値観と宗教の教義は混同され、子どもから見ると区別することはできません。
5 親が子どもをライバル視する
宗教が支配する家庭では、親と子どもが同じ価値観を持つことになります。子どもはある程度の年齢になればそれに抵抗しますが、抵抗したところで家を支配する親の価値観が変わることはありません。
親と子どもが同じ価値観を持つと、親子の間に微妙な心理的化学変化が起きます。親の側に子どもに負けたくないという感情が芽生えます。
子どもが親と同じ職業を選択した場合は、この心理はより加速されます。同じ団体の中で心理的に競うことになります。
同じ職業を選ばなかった場合も、特技や趣味、宗教が同じであれば、親の側がライバル心を抱き、子どもに負けじと頑張ることになります。子どもはそのたびに、自分は親に受け入れてもらっていない、愛されていないというメッセージを受け取ることになります。
続く

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