宗教行事に参加したとき、自分の気持ちに正直でいられるでしょうか。ホッとできるでしょうか。単純ですが、大切です。宗教行事に参加するために自分を偽らなければならないとしたら、間違った方向に向かっているということです。「本当の自分」を「自分の中の他人」にしなければならないとしたら、宗教行事に参加することは意味がありません。むしろ有害です。
健康な宗教であれば、参加すればするほど自分の本当の姿を知ることができるはずです。自分の正直な気持ちを感じることができるはずです。素になることができるはずです。裃をつける必要はなくなります。もっと自由になれます。これが宗教です。
ここでいう自由とは、好き勝手という意味ではありません。自己中心であってよいということでもありません。自己中心は、自分を中心にしか考えることができない不自由さです。
健康な宗教かを見定めるポイントがあります。
1 その宗教は自分を解放してくれるか
2 その宗教に関わることで素の自分を大切にできるか
このことが保証される限りにおいて、宗教は意味があると言えます。
安全基地の提供
愛着理論が注目されるようになりました。生後一年か二年くらいの間に、信頼できる人物との間に愛着関係を構築できた人は、その後の人生を心理的にギクシャクせずに生きてゆける可能性が高くなります。他方、愛着形成で躓くと、この世界は「生きにくい世界」になります。
愛着を形成できると、人間は安心して、少しずつ母親との距離を取ることができるようになります。行動範囲は段階を追って広がり、また不安になったら安心した関係に戻って来ます。エインズワースは、これを「安全基地」と呼びました。
宗教が提供すべきなのは「安全基地」です。健康な養育は、安心して成長できる環境を提供し、それを後押しします。
カウンセリングのプロセスで、愛着が問題だったと思われるケースは少なくありません。親が安全基地になることで改善に向かうことがあります。必ずしも親が安全基地になれないケースもありますが、援助者が、暫定的ではあっても安全基地になることで立ち直って行けることもあります。宗教は、この役割を果たすことはできないでしょうか。
宗教の自浄能力
宗教に自浄能力が欠けている場合があります。「正常」を生きることが意識されすぎて、間違いがあるべきではないという考えに陥り、防衛機能が過剰に働いて隠蔽体質になります。
宗教は本来、自分を問うことから始まります。牧師も信徒に対して、「自分が間違っていたら、それを認めなさい」と、自分を問う必要性を語ります。
ところが牧師になると、自分はいつの間にか対象外になり、人を指導するだけになりがちです。そのとき必要なのは大義で、自分はカミの召しを受け、一般の人たちとは別な、一段上の、聖い人になったという言い方をすることで、自分を見なくなります。
牧師にとって最も大切な資質は、自分が見えていることです。自分が見えていないという周囲の評価は避けたいところです。宗教の自浄能力とは牧師の自浄能力です。
宗教は人を解放するためのものです。宗教二世が発達性トラウマに苦しみ、自分の人生が奪われたという訴えをする必要がないように、専門職自ら本来のあり方を探っていく責任があります。
親子問題の解決の鍵は親の側が握っているのと同じように、宗教的コンテクストで心の傷を負った人たちの解決の鍵は宗教側が握っています。もし間違いがあったのであれば、その現実をそのまま受け入れることが大切です。
続く


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