トラウマからの回復にプラスに作用した可能性がある要素を挙げます。
〈初期の段階でやっていたこと わかったこと〉
1 原家族の環境で耐性を獲得した
2 原家族、親との関わりを見直し、負の面にはバツをつけた
3 宗教を客観的に評価し、信仰理解の負の面と団体のあり方に一度バツをつけた
4 思考することが比較的苦にならなかった
5 アウトプットすることができた
〈その後、注意したこと わかったこと〉
6 自分の人生の棚卸しを自分で何度かやった
7 主体的に考えるようにし、思考停止に陥らないように気をつけた
8 親の考え方と自分の考え方を区別し、適切な距離を取ることを心がけた
9 問題がなぜ起きたかを突き止める学習を使命だと理解し、真剣に取り組んだ
10 「正常」よりも自分の感性を大切にすることを心がけた
11 「感じること」を大切にし、感情機能を取り戻すことを心がけた
12 やらないでいたこと、できなかったことは、勇気を出して挑戦することにした
13 主体意識を持てないことはやらされてしまわないように注意した
14 ストレス過多になっていると感じたら、頑張らないことにした
15 教会二世である自分のありのままを肯定的に見るようにした
16 葛藤を肯定していいと思うようにした
17 臨床心理学を学んでから、人に共感することを心がけるようになった
18 臨床心理学を学び、人を肯定し、ほめる練習を始めた
19 自分が受けた子育ては、子どもの側に責任がないことを自分の中で明確にした
20 自分がいちばん謝らなければならない対象は自分自身だということに気づいた
まとめると、自分の中で他人にしてきた「本当の自分」に気づき、自分を裏切ることをやめる作業を続けたということです。
以下、各項目にコメントを付けて行きます。
1 原家族の環境で耐性を獲得した
ボクシングのジャブをかわすように、攻撃を上手に逸らす術を体得しました。ストレス耐性もいつの間にか身につきました。生きることに必死でした。その中で、見返してやる根性も身につけました。挫折体験の意味を何としても突き止めたくなり、臨床心理士資格を取得しました。博士後期課程で研究をまとめることもできました。
2 原家族、親との関わりを見直し、負の面にはバツをつけた
原家族を評価する作業は簡単ではありません。それに加えて、宗教の影響を色濃く受けている家族のあり方を見直すプロセスは困難を極めます。自分が生きてきた現実をひっくり返すくらい、時間がかかる、ハードルの高い作業です。心理臨床に関わる中で、これがいかに難しいかを見てきました。それでも、原家族の負の面を直視する勇気は、確実に最初の一歩になります。
評価するときには、宗教の外にある尺度が必要になります。人間の仕組みと現実に向き合う人間科学、とくに臨床心理学は助けになりました。
宗教で教えられて来たことと自分で学んだ臨床心理学を並べてみると、それまで気づかなかった違いが見えてきます。
ここで宗教が登場します。「それはカミから出たものではない。罪深い人間が産み出したものだから聞く価値はない」。
しかし、宗教サイドのそのような警告に一理あったとしても、臨床心理学のフィルターに晒したとき、宗教では正しいとされていることが稚拙だったりします。
この違いを目の前に、しばらく葛藤することになります。「それでも、自分が教えられて来た宗教の考え方が正しいのではないか」、と。自分が酷い目に遭わされてきたケースであっても、なかなかこの考え方から抜け出せません。逆に、擁護しようと頑張るのが一般的です。自分のアイデンティティが土台から揺さぶられるからです。
頭の先の話しではありません。絶望感、してやられたという思い、被害者意識、拠り所のなさから来る恐怖に襲われ、頭の中でグルグル回りをします。
しばらくの激しい葛藤を経て、少しずつ心理的な落ち着きを取り戻して行きます。それと並行して、徐々に現実の解像度が上がってきて、実態が見えてきます。「やはりだめだ。本来人間の仕組みについての知見を提供することを目的としていない宗教が、人間のことを全部わかったふうに言い過ぎていたのかもしれない。そこが間違いだった。宗教はもっと、人間科学の知見の前に謙虚であるべきだった」という結論に到達します。
ここまで来ると、スタート地点です。それまで一ミリも動かなかった岩盤が少しずつ溶解し始めます。
キリスト教の基本教典である聖書は、人間の仕組みに関する知見を提供することを目的として書かれていません。人間のスピリチュアルなニーズについて専門的知見を提供している宗教書です。イエスが作ろうとしたコミュニティ、「神の国」は、現代の輻輳した時代のフィルターにも耐えられるだけのものがあると感じています。
続く


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