もう一つの選択肢です。「お前は疲れているんだから、もう寝なさい」と言われたとき、親の愛情は本当ではないことを察知したとします。そうすると、親の愛情を粗末にしているという理由で罰せられることになります。
子どもにとっては、これも恐ろしいことです。恐ろしいので、親が愛している振りをしているだけの見せかけのセリフを、本当の愛情として受け取ろうとします。本当の愛情として受け取ろうとする子どもは、自分は愛されているに違いないと自分を納得させ、自分の心を欺いて親に近づこうとします。ところが子どもを愛していない親は、子どもが自分に近づいてくると子どもを心の中で拒絶します。
子どもを愛することができない親は、子どもを無条件で受容することができません。そのような親は、子どもが自分に近づいてくると、自分が子どもの愛に正しく反応していないことを認識します。
この自分の実態を認めるのはとても恐ろしいことなので、偽りが露呈しない段階で調節し、子どもが自分に近づくことを上手に阻止します。近づかれるとますます子どもを愛していないことを認識しなければならなくなるからです。それで、「歯磨きをしてきなさい」と言って子どもを自分から遠ざけ、子どもの気持ちを逸らすように働きかけます(26~27頁)。
ここで説明されている心理的メカニズムは、内部者の証言の視点で振り返ってみて、かなり納得の行くものでした。親の感情的苛立ちはしばしば感じていました。それがどれだけ破壊的なものであるかは、当時は知るよしもありませんでした。
宗教が絡むと、この欺瞞的やりとりは正当化されます。親が苛立ちを子どもにぶつけ、子どもが自分で自分の羅針盤を破壊しても、宗教はそのことをよしとします。
親は、自分が罪責感を感じても、宗教がそれをよしとしてくれるので好都合です。罪責感を静めることができます。親にとって、宗教はありがたい、十分メリットがあるものになります。しかし子どもから見れば、宗教は親の欺瞞をバックアップするだけのものになります。
この心理的メカニズムは、自分が親になって、子どもに対してやっていた気がして、反省しきりです。
続く


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