臨床心理士は人と向き合う仕事です。人と向き合うためには、自分に向き合うことが欠かせません。自分に向き合うことをやめると、人の話が聴けなくなります。人と関わる以上、自分との向き合いは死ぬまで続く作業です。そのようなわけで、「自分とは何者か」、「自分の出自・組立ては」、「自分はどういう意味で傷を負ってきたか」、このようなことをいつも考えてきました。
あるとき、トラウマ臨床について学ぶ中で一つのことに気づきました。発達性トラウマの視点で自分を見直してみると、一臨床家である前に、一人の人間として、自分のことがより深く理解できるのではないかと直感しました。自分が長いこと抱え、自分で克服しようと努力してきた生きづらさはこういうことかと、かなり納得できました。そのとき不思議なことに、ホッとする気持ちが湧き上がってきました。それ以来、以前にも増して教会二世の問題に向き合うようになりました。
こういった様々な要素があいまって、宗教二世、そして教会二世が抱えている複雑さについて、当該者、また一臨床家として、一般の方々に広く知っていただきたいと感じるようになりました。そして、思い立ちました。
自分の体験を材料にしていただいたらどうだろうか!
この手の心理学のブログであれば、自分が関わった事例を掲載するのが普通です。今回は、複雑な経緯の中で起き得るいろいろな可能性を想定ながら、考え抜いた末、あえて自分のケースを開示することにしました。
あくまで個人的なもので、一つのケース・スタディに過ぎません。しかし、心理学研究法でいう質的研究のデータであり、研究者がリサーチするのと違う内部者の証言、「分厚い記述」として受け取っていただければと思います。寄り添う側の心理職と宗教を運営する側の専門職、この両者の視点から見た記述として参考にしていただければと願っています。
自分の体験を発信すれば、関わってきた団体や自分の原家族のことを書かなければならなくなります。読んでくださる方が具体的に自分と関わりがあるかもしれないと感じたら、その方が嫌な思いをすることは十分予想できます。執筆事情から来る必要性を理解し、ご寛容をもって受け止めていただければ幸いです。
教会が直視してこなかったこの問題を取り上げれば、様々な立場の方々からのご批判を受けることを覚悟しなければなりません。お読みいただく前に、目的を確認させていただければと思います。関係者を貶めることが目的ではありません。教会と戦うことが目的なのでもありません。
自分を臨床の一ケースとして発信する目的はただ一つです。宗教二世が社会問題として取り上げられている今、そのことで苦しんでいる教会二世の現実を知ってもらうだけでなく、苦しんだ方々にも生き直しの希望があることを伝えたい。そのことで、だれか一人でも助けになる方があればこのブログを世に問うた意味があると考えています。
続く

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