いよいよ最終段階、魂の心配停止です。安冨らはミラーの闇教育に言及し、次のやりとりを紹介します。
親が一方的に規範を設定するとします。親は、子どもがそれに従えないと、それを口実に罰を与えます。子どもがその理不尽さに心が傷つけられたことで感情を表出すると、今度は子どもを抑圧します。
事態は深刻化します。子どもの魂は、親が与える次の二重の罰によって動きを止めます。
1 これをしないからおまえを罰する
2 罰を与えているわけではないから、そう感じる悪いおまえを罰する
1で罰を与えられ、子どもがそのことを認識して泣くと、2で罰が与えられます。
子どもが1で罰を受けたとき、2を受けないようにするために1を罰だと思わないようにすると、「罰を罰とも思っていない」という理由でやはり罰を受けることになります。
このようにして、子どもはどう振る舞っても抜け出せない袋小路に追い込まれます。出口のない抑圧を受けた子どもの魂は、そこで動きを止めます。子どもは、親が支配する世界でしか生き延びることができないことを知っているからです。
このようにして、自己が喪失された子どもの魂は心肺を停止します。魂の心肺停止は、教育やしつけとして正当化されます。皮肉なことに、宗教はそれに大義を与え、宗教教育は正当化されます。魂が心肺停止になった子は、宗教の世界ではよい子として賞賛されます。
罪責感による支配
いよいよプロセスの最終ゴール、総仕上げです。子どもの中に罪責感をインストールします。
魂が停止した子どもは、悪かったのは自分だと思うように仕組まれていることに気づかないまま、自分が悪いと感じる罪責感の回路を埋め込まれます。これは、魂を心肺停止に追い込む側の最終ゴールです。
なぜ罪責感を植え付けることがゴールなのでしょうか。罪責感を植え付けることに成功すると、植え付けた側は植え付けられた側をコントロールすることができるからです。親は罪責感を植え付けることで子どもをコントロール下に置きます。
宗教も同じメカニズムを利用しています。宗教は、不安と罪責感を上手に使います。キリスト教がこの点で健全と言えるかは再検証の必要があります。イエスの神の国は、不安や罪責感で人をコントロールしません。
安冨らの分析を改変したものを図にまとめました。

右の子どもを受容していない側を見ると、子どもがどのようなプロセスで自己を喪失し、罪責感が埋め込まれるかがわかります。
続く

コメント