思し召しを信じ、大学を出て牧師養成の学校に入学しました。親は、子育てが成功したと思ったようで、そのことを喜びました。
その学校は、全寮制という閉鎖空間の中で専門職としての資質を身につけるという考えに基づいて運営されていました。あらゆる場面で規律と服従が求められました。最初反発を感じた人も、どこかで心がポキッと折れてしまう。それが宗教体験だと教えられました。
学生はいつしか、「推され組」と「干され組」に分けられます。自分は「干され組」になり、おりあるごとにはずされました。当時は自分軸がなく、認めてもらおうとひたすら努力を続けました。切ない過剰適応でした。
現場に出て意欲も湧かず葛藤していたとき、団体から外国で勉強してくるように言われました。生まれて初めてしがらみのない世界に身を置きました。
そのようなおり、自分の醜さを認めざるを得なくなる出来事がありました。自分が信じてきた宗教はそのような自分の問題には無力で、自分を守ってもくれませんでした。恐怖心、絶望、敗北感、そして罪責感に苛まれました。うつ状態がしばらく続きました。
専門職を辞することも考えたが、先輩のアドバイスもあって、ゼロからやり直すと決めました。不思議なもので、自分の人生は、その体験からスタートしました。
絶望の中で、二つのことを始めました。
1 基本教典である聖書を読み直すこと。自分の目で読んでみた教典は、教えられてきた教義とかなり違っていることに気づきました。
2 格好つけるのをやめ、素で生きること。それまでは人から批判されてはいけないという防衛意識が強く、エエ格好しいをしていました。
専門職として団体にとどまり続けたので、見た目は変わりません。しかし、気づいてみたら、あらゆることについて、自覚的に考え、判断するようになっていました。思考停止に陥っていたことがよくわかりました。感情機能が少しずつ回復して行きました。そして一つのことが確信になりました。
「健康な宗教は考え抜く先にある」
続く

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