昨今、宗教二世の方々が、自分の苦悩をネット上で発信するようになってきています。知ってほしいという切実な思いが伝わってきます。顔出しで発信している方もおられ、その勇気は正直すごいと思います。
そういった発信の中に、数からするとわずかですが、いわゆる伝統的な教会で育った教会二世の告白が含まれています。その苦しみと涙には、当該者の一人として深く共感できます。数がそれほど多くないのは、伝統的な教会の場合は問題がないという暗黙の了解があるからではないかと推察しています。
真実な証言に滲み出る切実な思いを重く受け止めた上で、どこか手放しで受け止めきれない違和感があるのは事実です。その理由を考えてみました。
ネット上での発信は、いろいろな受け取り方があるはずです。
教会二世現象に疑問を持たない人は、そのような発信を宗教的堕落だと斬り捨て、教会はよかったという信念をさらに強いものにするかもしれません。
教会二世であることに葛藤しながら行動しない人は、そのような発信を、批判・攻撃対象にするかもしれません。葛藤を自覚しないまま攻撃している人は、その攻撃がさらに激しくなるかもしれません。
教会二世でありながら自分なりの生き方を模索した人は、もの凄い葛藤と摩擦、場合によっては抵抗勢力との激闘を経験しているので、そんなに簡単に発信するなと非難するかもしれません。
教会二世で宗教との関係を断った人は、奥歯にものの挟まったような言い方を見て、自分の過去がフラッシュバックしたり、腹を決めろよと、心理的距離を取ったりするかもしれません。
いずれも根が深いのです。
青年伝道やキリスト教教育に関わっている方々が、教会二世について実態調査をすると聞きました。これも意義深いことではあります。
しかし、教会二世は、教会二世の実態を調査することを本当に喜んでいるのでしょうか。わかってもらえるかもしれないと思えば、一つの区切りにはなります。しかし、サンプルにするような俎上の乗せ方は、当該者に失礼にならないかと正直感じました。そのことでさらに傷を深くする方がおられるかもしれません。
カウンセリングルームに教会二世の方が来談されることがあります。教会二世現象は、あるかないかを調査するまでもなく、一定の現象として存在します。
見えていないことがあります。人間の仕組みです。
続く

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