昭和三十年代、戦後の復興を疑わずに社会全体が邁進していたある年の夏。長男として生を受けました。
両親はキリスト教系宗教団体の専門職で、北国の小さな教会を担当していました。記憶をたどると、快活で、はっちゃけた、体を動かすことが好きな男の子だった気がします。ところが、良い子でいることが当然で、素直な感情を表出することは許されませんでした。そのような環境の中で、ものごとを感じる芽は摘まれて行きました。
親からは一度もほめられたことがありません。宗教には、人間は罪人だといった性悪説に基づく教義があります。この教義が支配する家庭は人間不信で覆われていました。なぜ自分は認めてもらえないのか。そういったイライラ感がいつもありました。
体罰は正当化されました。団体の創始者の指導によるものでした。今では犯罪ですが、親は信心が深く、自分のためを思って立派なことをしてくれているくらいに思っていました。
門限は厳しく管理されました。日曜日は宗教活動に参加することは当然で、他の選択肢があるとは考えもしませんでした。
テレビは自由に観てはいけないことになっていました。友だちの話題について行けない悔しさを幾度となく味わいました。それが原因で、虐めのターゲットになりました。この体験は、自分のパーソナリティに影を落としました。好きなことをやれば叩かれるという価値観をインストールしました。
中学に上がると、異性が気になり出します。異性とつきあうことなど絶対に許されないと考え、諦めました。
部活やサークルは、高校も大学も諦めました。それを補うように、団体の日曜日の活動にのめり込みました。歌のグループも楽しかったし、若い人たちが集まっていたのも楽しみでした。
体罰を受けたことで、自分の中に一つの価値観がインストールされました。この世界は、自分がしたことについては厳罰を受けなければならない、血も涙もない世界だという価値観です。その価値観は、神の愛の話しを聞いても上書きされることはなく、その世界観を取り除くまでに三十数年の月日を費やすことになりました。
罪責感がインストールされました。宗教はそれに拍車をかけました。罪責感がぐるぐる回りを始めると、一日でクリアできればいいほうで、長いと一週間続きます。今死んだら天国に行けないのではないかという恐怖が襲ってきて、ひたすら自分を責め続けました。
いつしか親への憎しみが芽生えました。高校生のころ、反発と憎しみはピークに達しました。
団体では、専門職が自分の子どもを自分と同じ道に進ませると賞賛される風潮がありました。自分もその道をたどることになるかもしれないとどこかで予感していました。
専門職になるためにはカミの思し召しが必要だとされます。専門職の子どもは、思春期になると、自分にカミの思し召しがあるかが気になり出します。こういった雰囲気の中で自分の職業を選択できるほど当時の自分は強くありませんでした。
誤解のないように付け加えておきますが、専門職の道を選択したことが間違いだったとは思っていません。
続く

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