パターン3 団体に過度に依存する
団体は小さな狭い世界です。宗教は、外の世界の常識が通用しないサブカルチャーです。宗教の影響を強く受けて育つと、その狭い世界で認められようとします。
外の世界との関わりが希薄になります。団体に属していない人たちは自分たちより一段下という価値観を持っている団体では、ビジネスの世界は悪の勢力という見方をします。
そのような中で人格形成期を過ごした人は、一般社会と関わる勇気を持つことができなくなります。仕事はしていても、どこか足が浮いた感じで、これが自分の人生だというコミットメントがなかなかできません。
大学を選ぶとき、宗教系の大学を選ぶことがあります。一般の大学は考え方が宗教の教義と異なるので、間違った価値観を刷り込まれないようにという配慮です。親が主導するケースもあります。子どもの側で忖度して、親が喜びそうな大学を選ぶ場合もあるでしょう。
就職活動をするとき、専門職を目ざす方がある一方で、専門職を目ざさなかった方が、一般の仕事に就くことにためらいを感じ、宗教系の会社や団体に就職することがあります。
あるケースでは、自分と団体との心理的距離について振り返りをし、自分軸を失うくらいに依存的になっていたことに気づきました。聖書を読むことについても、以前は義務だと感じていたのが、今は読みたいという気持ちが自然に湧いてきて、前よりも心がいきいきとしているということです。必要だと感じたときには、それまで属していたのとは違う教会を選んで参加しています。毎週行くと義務になりそうで、ほどよい参加の仕方をあえてしているとのことでした。主体性をしっかり持って生きることを取り戻した事例です。
カウンセリングで確認することがあります。教会に参加することと奉仕に参加することの意味です。
宗教は社会契約関係がないので、社会的義務は発生しません。純粋に自発的に、信仰と好意で集まっているだけです。専門職はこのことを十分に理解しておく必要があります。専門職であっても、職場の上司のように業務命令は出せないということです。あくまでお願いの範囲です。
団体で不利益を被っても、そこに居続けなければならないという強迫観念を持っている方は少なくありません。団体を離れるとカミの天罰が下るという教えが語られていることもあります。語られていなくても、信徒の側でそのように思ってしまっていることもあります。
奉仕もあくまで自発的なものです。生活に支障が出る場合は、自由に調整してかまいません。不具合があるならば、どこの教会に参加するかも自分で決める自由は保障されているはずです。
続く

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