親の考え方と自分の考え方を区別し、適切な距離を取ることを心がけました。
自分を傷つけた人のそばにいながら心の整理ができるほど、人間は強くありません。いっしょにいれば、考え方に巻き込まれる可能性が高くなります。
人生で二回、それまでの環境と距離を取る出来事がありました。いずれも自分からではなく、そうせざるを得ない状況に追い込まれました。結果的には、どちらも意味がありました。
一回目の出来事は、原家族との距離です。いっしょに住んでいたときには、体にアレルギー反応が出て、喘息がぶり返すこともありましたが、それからは一度も発症していません。
二回目の出来事は、先述したように、団体に籍は残しながら、物理的に仕事環境を変えてみたことです。長い間育ててくれた環境と距離を取ることになった体験は、深い心の傷になって残りました。しかし、自分が次の発達段階に進むためには欠かせないステップになりました。
なぜこんなことが起きたのか
適用文化人類学を学ぶ機会が与えられました。臨床心理学を学びました。帰納的聖書読解法を学びました。いずれも大きな助けになりました。挫折して以来、自分が体験したことのメカニズムを解明したいという思いはひとときもブレたことはありません。
「正常」よりも自分の感性を大切に
原家族は、その環境での「正常」を与えてくれました。宗教はその「正常」を強固にしました。あとになって、正常だと思っていたもので正常でなかったことに気づいたことは少なくありません。
宗教の「正常」を問い直すためには、神学の検討が必要になります。それでありながら、よく考えてみると、それほど複雑な問題ではありません。「人を大切にできるか」、これが正常かを判断する指標です。人よりも組織を上位に置く宗教は、「正常」ではありません。あらゆることについて人よりもカミを上位に置く宗教も「正常」ではありません。キリスト教のカミは、人を大切にされるカミだからです。人を創造し、人を愛してやまないカミだからです。
人を大切に出来ないことについて感じる違和感は、貴重なものです。
「感じること」を大切に
子どもの頃から図工や美術は好きでした。音楽も好きで、若い頃は合唱や金管楽器にのめり込みました。好きな芸能人の歌謡曲を何度も聞きました。音に敏感で、音程がずれることに耐えられない時期もありました。それくらい音楽は好きでした。指揮者を夢見ていた時期もありました。
音に触れると感覚が揺さぶられ、何とも言えない心地よさを味わうことができます。感覚が揺さぶられる体験は、感情機能を回復するプロセスでプラスの方向に作用した気がします。音楽は、自分を失わないための逃げ場になっていました。今でも、大切な趣味の一つです。
続く


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