宗教は皮肉なことに、豊かで自由な精神性を抑圧します。高度なスピリチュアリティは、そのような環境下で生きのびることはできません。安冨らが言う「本当の自分」を「自分の中の他人」にしながら生きる以外になくなり、宗教は逆に、本能的、欲望的、現世的になります。
宗教を利用しながら本能で生きている姿は、明るみに出したくありません。漠としたうしろめたさを感じているため、覆い隠す必要が出てきます。そこで戒律が必要になり、宗教は規律に身を当てはめる装置になります。
宗教で行われる大会などの行事は、このことを確認する場になります。参加者は理想にとどかない姿を提示され、罪責感を感じるように誘導されます。理想にとどかない自分を反省し、規律に身を当てはめ直します。そうすると、「祝福を受けた」と感じることができます。快です。その心理はしばしば「恵まれた」という言い方で表現されます。しかし、それが思考停止状態であることには気づいていません。
キリスト教では、規律に身を当てはめるメンタリティを、「律法主義」と呼びます。理想を掲げ、自力で達成しようとエンドレスの努力をすることが宗教になります。本来宗教は、人間のスピリチュアリティのニーズに応答するものですが、それとかけ離れた世界になります。規律ほど宗教組織にとって都合のよいものはありません。不健康な宗教は活動過多になります。布教や奉仕はノルマになります。信者は存在しない目標に向かってエンドレスの努力を続けます。
他者視点共感能力
健全な宗教の可能性があるとすれば、自分意識を獲得すること、あるいは取り戻すことです。
宗教的文脈で問題が起きる背景には、自分意識の不足、あるいは欠落があります。自分はどういう人間なのかがわからない。自分は何を感じているのかがピンときていない。安冨らの表現を借りれば、「本当の自分」を「自分の中の他人」にしてしまっている状態です。
自分を意識できると、自然に他者を他者として認識し始めます。人の気持ちを感じることができるようになります。自分を意識するようになると、人の視点から自分を見ることができるようになります。これを、他者視点共感能力といいます。本当のスピリチュアリティは、人の尊厳の尊重が中核にあります。自分意識がなければ、人の尊厳は感じ取ることができません。
他者視点共感能力が欠如していると、周囲の人たちに自分が見えていないという印象を与えます。自分意識の欠如はそのままで回復、あるいは自然に獲得することはほぼありません。放っておけばそのままです。年齢を重ねるとその傾向は強くなります。周囲をコントロールしても何も感じなくなります。後輩を虐めても何も感じません。
健全な学習
人間は教え込めばわかるというのは間違いです。強制も体罰も教育効果はありません。
それでは、人間はどのようにして学習するのでしょうか。安冨らによれば、人間は情動にコンタクトされたとき、何かを学ぶことができるということです。
キリスト教は、意志の機能を重視してきたところがあります。しかし、信仰は意志ではありません。思考停止でもありません。感情の高揚でもありません。
人の気持ちに共感できること、正しい学習を提供できることは、宗教が健康であるために欠かせない要件です。
続く


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