3 宗教を客観的に評価し、信仰理解の負の面と団体のあり方に一度バツをつけた
原家族の評価と並んで、あるいはそれ以上に、ハードルが高い作業です。宗教は、「負の面」がない前提で成り立っているからです。
社会的にバッシングを受ける宗教は、自分がやらなくても社会がバツをつけてくれるので、自分の被害者意識を軽減することができます。しかし、教会二世の場合、その宗教は必ずしも社会が問題視しないので、あえて自分でその作業をする必要が出てきます。
本人が総合的に考えて、その宗教に問題がないと判断すれば、脱会する必要は必ずしもありません。それでも、何が問題だったのかは特定しておく必要があります。それなしにトラウマからの回復はありません。
評価をするときには、教義、すなわち自分が浸かっていた宗教的な考え方はものさしになりません。宗教には絶対性があり、客観的評価などしていたら、それはもはや宗教ではなく、ただの思想でしかないからです。つまり、評価をしないのが宗教なのです。評価をするためには、客観的、第三者的なものさしを持ってくる必要があります。
宗教を評価しようと決めると、自分にとって絶対的な意味を持つ価値観を客観的なものさしに晒すことになります。かなり自分が揺さぶられます。恐怖心が湧いてきます。生きる土台が揺らぎます。
宗教では、評価する行為自体、冒涜とみなされます。タタリがあると教える宗教もあります。キリスト教も例外ではありません。恐怖心を煽ることでつなぎ止めているケースもあるかもしれません。
どのようなものさしを持ってくればよいかは、ことばで言うほど簡単ではありません。原家族を評価する場合は、人間科学の知見が役に立ちます。そこで生きている人間が人間本来の資質を開花できないだけでなく、逆におかしくなってしまうことがわかれば、その宗教はおかしいと考えるきっかけになります。関わっている人間のありようが、岩盤を溶解させる入口になるのです。
宗教を評価する場合は、そうは行きません。自分の中で、宗教自体に欠陥があることを証明する必要が出てくるからです。
二つの判断基準があります。
(1)宗教実践
宗教実践が社会通念に照らして妥当なものかということです。判断のプロセスはかなり複雑になりますが、それでも一つの指標になります。
ところで、社会通念に照らして妥当なものかを判断することは簡単ではありません。高額な物品を販売しているケースであれば、考える材料にはなります。しかし、高額なお布施を強要する場合であっても、それが正しいと思ってしまうのが宗教なのです。高額な備品を買わないことが罪だと思ってしまうのです。しかも、伝統的宗教は、必ずしも高額な備品の購入を迫ったりはしません。その分、判断がややこしくなります。
(2)教典の解釈
教典の解釈が妥当なものでなかったことがわかれば、修正が必要だと考えることが出来ます。しかしこれは、ある程度の知識が必要になります。どの宗派も、自分たちが正統的だと言っているからです。
宗教サイドに、バランスの良い、宗教に関わる人を傷つけない健康的な教義を作って行く責任があります。
一度バツを付けるというのは、ただ破壊すればよいということではありません。責任が自分に回って来ます。その責任を受け止めない「見切り」は、建徳的な議論ではなく、ただの批判に終わります。
自分は何を心の支えに生きて行くのか、何を信じて生きて行くのか。宗教のコンテクストで言えば、自分の神学を自分で作って行く段階への船出です。人間としての自立です。宗教に関わる者としての自立です。
自分にとっては、宗教を運営する立場のスタート地点に立てたことを意味していました。この作業は、自分軸を太くするために役立ちました。
大変な目に遭っているのに、見切りをつけない人もいます。専門職育成の学校にバツをつけることができた卒業生たちは、自分なりの人生を懸命に模索しながら、それなりの生き方をしています。他方、バツをつけることができない人たちは、自分の中にある不協和をなだめるために、自分と違う考え方をする人たちを批判・攻撃しながら生きているように見えます。
続く


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