自己を喪失し、「本当の自分」を「自分の中の他人」にしてしまった人は、自分を感じないようにしながら生きています。自分を押さえ込んでいるので、他の人が「本当の自分」を生きているのを見ると、激しい葛藤を感じます。その場合、自分の中の嫌悪を自分に向けるか他人に向けるか、どちらかを選択します。
1 嫌悪を自分に向ける人は、宗教は人を愛するように促すので、攻撃を他の人に向けることに躊躇を感じ、自分で自分を破壊することを繰り返します。内圧は高まり、どこかで爆発することになります。爆発は時間の問題です。
2 嫌悪を他人に向ける人は、いきいきと「本当の自分」を生きている人を見ると、それを攻撃せずにいられなくなります。「本当の自分」を抑圧している度合いが強ければ強いほど攻撃は激しくなり、最後はその対象を抹殺します。
宗教ではカミのご加護のもと自由に生きる姿を「恵み」といいます。いきいきと恵みに生きる人は攻撃対象になります。攻撃するためには理由が必要です。宗教では、しばしば「その教義は間違っている」などの言い方がされます。実際は、他人の中に感じた「本当の自分」を攻撃しているだけです。
宗教環境の中で人格形成をした人がそのまま親の立場になると、このような心理的メカニズムが働いて、子どもに対して不適切養育をする可能性があります。
「本当の自分」が「自分の中の他人」になり、自分の正直な感覚が追い出されると、その場限りの理屈を振り回すことに何の矛盾も感じなくなります。自分にとって利益があるか、あるいは自分のほうがマウントをとれるかという尺度だけで、何の迷いもなく一貫性のない行動を取ることができます。
宗教的環境で人格形成をした人が、人一倍人からの評価を気にしたり、打算的であったり、一貫性がなかったり、マウントを取りやすかったりすることも、この説明で納得できます。
続く

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