ストレス過多になっていると感じたら、頑張らないことにした
頑張って生きていると、ストレス過多になっていることに気づかないものです。自己客観視ができなくなります。いわゆる働き盛りの時期は、短い睡眠時間でがむしゃらに働いていました。
そのような生き方はいつまでも続くものではありません。自分のことは自分で守る視点を取り入れるようにしました。
教会二世である自分のありのままを肯定的に見るようにした
宗教二世、教会二世であること。自分で選択できない運命みたいなものです。生まれてきたらそうなっているのです。子どもの頃には、悲しい星の下に生まれたと思っていました。社会が見た「普通」でないことで、虐めのターゲットになりました。青年期は、それと並行して、団体という狭い世界で生き延びることに色気を感じていました。統合されていない、アンビバレントな感情です。
自分取り戻しのプロセスで、一つのことに気づきました。日本の社会では少し「変な」、だれからもわかってもらえない出自。それはそれでいいのではないか。自分が背負ってきたものは小さくありません。仕事関係でも、自分に責任がない負のものを引き受けました。
「こんなハチャメチャな人生を懸命に生き抜いた人もいるんだよ」と言いながら生きてもよいのです。
葛藤を肯定していいと思うようにした
葛藤すると、心のエネルギーを使うので疲れます。宗教的コンテクストでは、平安、あるいは快の反対に見える葛藤は、ないほうがいいという前提があるため、葛藤は感じていないことになっています。信心が深まれば葛藤はなくなる。委ねれば葛藤はなくなる。しかしその実態は、思考停止である場合があります。
葛藤は実は、複数の情報を自分の中で統合できないときに感じる、意味のある感情反応です。葛藤するからこそ成長できるのです。
葛藤すると疲れるので、できればなくしたいところですが、「信心が足りない証拠でもない。次の成長への胎動だ」と考えるようにしました。
臨床心理学を学んでから、人に共感することを心がけるようになった
心が凍り付いた人間でした。「正常」を振りかざし、人を傷つけることもありました。他者視点共感能力が欠けていました。自分が心理臨床に関わっていることも助けになっていますが、「今、この方は、どういう気持ちでいるのだろうか」と考える練習をしています。
臨床心理学を学び、人を肯定し、ほめる練習を始めた
親は自分のことをほめませんでした。そのような中で、なんとかほめてもらおうと必死でした。
自分も人をほめたことがありませんでした。カラッカラに干からびた自分は、人をほめることができませんでした。自分をほめてほしいという思いが強く、人に自分をほめてくれることを求めました。いつもイライラ感がありました。一度ほめられても、次にほめてもらわないとまた渇望してしまいます。自分の心に穴が空いているので、人にどれだけほめてもらっても、ザルのように水が流れ出てしまいます。
人からほめてもらえるから人のこともほめることができると考える人は少なくありません。しかし、臨床心理学を学ぶようになって、一つの発見がありました。人に肯定ストロークを送ることの大切さです。
あるとき思い立ちました。
人のことをほめてみよう!
心がカラッカラで、溢れてくるものがまったくないことに気づきました。それでも、心がカラッカラのまま人をほめてみました。小さな、しかし回復への一歩になりました。
ほめられて満足したら人をほめることができると考えている以上、おそらく死ぬまで人をほめることはないでしょう。
自分が人をほめて、それが呼び水になることが体験的にわかりました。人は、人のことをほめている人に対して肯定的な評価をしてくれます、つまり、時間が経つとこちらのこともほめてくれるようになります。ほめてくれることを先に求める人をほめてくれる人はいません。
それ以来、一つのことばを言うようにしました。
「すばらしいですね」
少し時間がかかりましたが、徐々に慣れました。
人をほめていると、その人のよい点に気づいたりするものです。悪いところばかりが目について批判していたのが、目線が変わってくることを体験しました。
続く


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