宗教は来世を語ります。だれであっても来世は不安であり、宗教はその答えを提供します。キリスト教はこの点については明確です。天国と地獄という概念が提示されます。
宗教環境で人格形成をすると、幼いころからこのことが刷り込まれます。自分が生きている世界は、住みやすい世界ではなく、閻魔様に監視されている世界になります。どこかで恐怖を抱きながら成長したという教会二世の「笑い話」的告白を何度聞いたかわかりません。「朝、目が覚めたら、お父さんとお母さんがいなくて、自分だけ取り残されていた」といった「キリスト者家庭あるある」です。お父さんとお母さんは善良なキリスト者だったので天国に行った、悪い子である自分は地上に取り残されたという意味です。このような怖い話しを聞かされ続けた子が、精神性の発達にどのような意味で負の影響を受けるかについては考えられてきませんでした。教義だけが優先されました。問題は、子どもにこのような怖い話しをしても何とも思わない大人の残忍さです。
宗教は、人間の不安に上手に入り込みます。宗教が健康であるためには、来世を語って、人の不安を煽るようなことはすべきではありません。
キリスト教の基本教典である聖書には、信仰のもたらす解放と幸せについての情報量は豊かですが、来世の情報は皆無に近いと言ってもよいほど、ほとんどありません。一個所か二個所を拡大解釈し、来世はこのようなものだと語ってきました。
そもそもこのような説き方は正しかったのでしょうか。恐怖を煽る内容であれば、神は愛であるという基本教義と矛盾することになります。
以前に述べた罪責感のインストールは、このことに拍車をかけます。罪責感に支配された人間は萎縮した人生を歩む以外にありません。健康な宗教は、罪責感で人をコントロールしません。決してすべきではありません。
続く

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