母親のあり方が今まで以上に問われるようになりました。毒親という言い方も市民権を得つつあります。ところで、臨床をしながら感じるようになったことがあります。母親との関係が難しく、母親が毒親である場合でも、宗教的環境の中で人格形成をした人は母親のことを悪く言いたがらないということです。
あるクライエントの方は、母親からディスられることに苦しんできました。カウンセラーが、物理的距離が必要ではないかと提案したところ、口を挟むように、「親のことは何があっても大切にすべき。それが信仰です」と反論。「お母さまは好きですか」と尋ねたところ、「好きです」と即答しました。さらに、母の日には、カードをつけてプレゼントを贈ったようで、そのカードに「大好きなお母さんへ」と書いたとのことでした。
母親に苦しめられ、体調も崩し、今も心理的にコントロールされています。カウンセラーの前では徹底して母親のことを悪く言います。それでもカードに「大好きなお母さんへ」と書くアンビバレントな感情が表出されました。
キリスト教の基本教典である聖書では、子どもは父母を敬うように勧められています。これが親子問題を解決するブレーキになります。親子問題をこじらせる原因にもなります。クライエントといっしょに、旧約聖書の出エジプト記に書かれている「親を敬う」ということばの意味を考えて行くことで、親を客観的に見ることができるようになるケースもあります。
キリスト教の教義がパーソナリティに組み込まれ、ネガティブに作用することがあります。自分の現実よりも宗教の教義が優先され、現実に向き合うまでに時間がかかります。自分が母親を否定したら、自分のキリスト者としてのアイデンティティが揺らいでしまうこと、教会の中での自分の立ち位置が危うくなる可能性があると感じていることも否定的に作用します。
母親に間違った罪責感をインストールされてきたことに気づくと、最初のハードルを越えて一区切りつけることができます。
このように宗教は、現実に向き合うためのものでありながら、現実から目を背けるように作用します。親は必ずしも意識していません。しかし、親を裏切ることができない子どもの感情を結果的には利用します。子どもは親が捨てられないのです。
宗教は親子関係に向き合うのが苦手です。なぜ宗教は、親子関係の現実に向き合うことが苦手なのでしょうか。
親子関係が検証されにくい理由をまとめます。
1 宗教は検証することを好まない
2 宗教は現場からの積み上げではなく、上から言われるという基本的な線がある
3 本来宗教がカバーしないはずのものまで権威をもってファイナルアンサーとして提示した
宗教そのものが悪の原因だったと断定するのは行き過ぎです。宗教と親子関係は、一部連動する部分はあっても、それ自体、異なる次元の問題だからです。それでありながら、宗教は親子関係の現実について権威であるかのごとく振る舞い、親子関係に暗い影を落としました。
続く

コメント